漫画・アニメ

まどマギ 叛逆の物語 考察|ほむらが悪魔を選んだ真意と結末の救い

kanchou

劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語を観終わった後、なんとも言えないモヤモヤというか、「えっ、これで終わりなの?」という衝撃に包まれますよね。

特に暁美ほむらが「悪魔」と名乗り始めたあの瞬間、多くの人が「どうしてそこまでしちゃったの?」と困惑したかなと思います。私自身も初見のときは、彼女のあまりの変貌ぶりに言葉を失いましたよ。

でも、彼女が歩んできた果てしないループや、たった一人で背負い続けてきた孤独を丁寧に紐解いていくと、あのラストは決して「狂気」だけでは片付けられない、一つの切実な愛の形だったんじゃないか?と思えてくるんです。

この記事では、ほむらの心の動きや新世界の秘密について、考察してみました。

この記事を読むとわかること
  • ほむらを悪魔へと追い詰めた「孤独」と「自己嫌悪」の正体とは
  • 丘の上の公園でまどかが漏らした「本音」がすべての引き金になった
  • 神を人間に引きずり戻してでも叶えたかった、秩序を超えた愛の正体
  • インキュベーターの魔の手から、愛する人を永久に隠蔽した戦略の裏側
目次
スポンサーリンク

まどマギ叛逆の物語の考察|ほむらが悪魔を選んだ真意

まず最初に考えてみたいのが、ほむらのソウルジェムを濁らせた「正体」についてですよ。魔法少女が魔女になる原因って、基本的には「絶望」ですよね。

でも、叛逆の物語の終盤でほむらが語ったのは、絶望ではなく「愛」でした。これ、すごく重要なポイントかなと思います。

彼女はまどかを救うために、100回を超えるタイムリープを繰り返してきました。そのループのたびに、大好きな友達が残酷な死を迎えたり、魔女化したりする姿を、何度も見続けてきたわけです。

孤独と自己嫌悪がソウルジェムを濁らせた背景

その果てしない時間のなかで、彼女の心には「孤独」という深い傷が刻まれていったんだと思いますよ。

誰にも理解されない、誰とも共有できない記憶。

たった一人で世界を救おうと奮闘するうちに、彼女の人間性というか、心の一部が少しずつ削り取られていったのかもしれませんね。

さらに、彼女を苦しめたのは「自己嫌悪」だったんじゃないかなと私は見ています。まどかを守るためなら手段を選ばず、時には仲間の気持ちを無視したり、利用したりすることもあった。

その冷徹な自分自身を、ほむらは心底嫌っていたんじゃないでしょうか。巴マミの繊細さに触れるたびに「私はなんてひどいことをしているんだ」と。

魔法少女の「穢れ」とほむらの「呪い」の差異

通常の魔法少女なら、絶望してソウルジェムが濁り切れば魔女になっておしまい、という秩序がありますよね。でも、ほむらの場合は違いました。彼女の想いは、絶望という一言では到底表せないほど巨大で、ドロドロとした執念に満ちていたんです。

「まどかのいない世界で、ただ秩序を守って戦い続けること」に、彼女は心の底から納得していなかったんだと思いますよ。

だからこそ、彼女の穢れは「救済の対象」としての絶望ではなく、世界そのものを塗り替えるほどの「呪い」へと昇華されてしまったのかもしれません。

私たちが目にしたあの禍々しいソウルジェムの色は、単なる汚れではなく、積もり積もった彼女の執着の結晶だったんでしょうね。

ほむらが経験したタイムリープの回数は、ファンの推測によれば100回を優に超え、期間にして10年分近い時間を一ヶ月の繰り返しに費やしたと言われています。

中学生という多感な時期に、これほどまでの精神的負荷がかかっていたことを思うと、心が壊れてもおかしくないですよね。

スポンサーリンク

丘の上の公園で語られたまどかの本心とほむらの誤解

物語の大きな転換点になったのが、あの花が咲き乱れる丘の上の公園でのシーンですよね。あそこでまどか(記憶を失っている状態)がほむらに言った「私だって一人ぼっちになるなんて耐えられない、そんなの怖くてできない」という言葉。

これが、ほむらのなかで「やっぱりまどかは、神様になんてなりたくなかったんだ!」という強固な確信に変わっちゃったんですよね。

これ、実はすごく悲しい「すれ違い」だったんじゃないかなと私は思うんですよ。まどかは確かに優しいけれど、それ以上に強い意志を持って「円環の理」になったはずなんです。

でも、ほむらにとってのまどかは、いつまでも「守らなきゃいけない、弱くて優しい女の子」のままだったのかもしれませんね。

このシーン、観ているこっちも「あ、これ言っちゃダメなやつだ…」ってヒヤヒヤしませんでしたか?ほむらにとってまどかのその言葉は、自分がこれまで積み上げてきた「まどかが神になって世界を救ったという秩序」を全否定するのに十分な威力があったんですよ。

「まどかを神様にしてしまった自分は、なんてバカな間違いを犯したんだ」という後悔。それが彼女のなかで、のちの「叛逆」の正当性へと繋がっていくわけです。まどかを救ったつもりが、実は一番残酷な孤独に突き落としていたんだ…と思い込んでしまった。

この「誤解」こそが、愛を悪魔的な執着へと変容させた決定的なトリガーだったんじゃないかなと私には見えますよ。

「人間としてのまどか」を固定したかったほむらの心理

ほむらが望んでいたのは、宇宙を救う女神としてのまどかじゃなくて、学校に行って、家族とご飯を食べて、一緒に笑い合える「普通の鹿目まどか」だったんですよね。

丘の上の公園での会話を通じて、彼女はその願いこそがまどかの本当の幸せなんだと、自分に言い聞かせるように決意を固めたのかなと思います。

たとえそれが、まどか自身の覚悟を無視することになったとしても、ほむらは「今のまどかの本音」を優先してしまった。

この選択をエゴと呼ぶのは簡単ですが、もし大切な人が自分の知らないところで神様になって消えてしまったら、私だって「戻ってきて」って願っちゃうかもしれないなぁ、なんて共感しちゃう部分もあるんですよね。

公園のシーンで注目すべきポイント:

  • まどかの発言は「記憶がない状態」の純粋な恐怖心だったこと
  • ほむらがそれを「神になったまどか」の総意だと解釈したこと
  • 「勇気がありすぎるから自分を犠牲にしてしまう」というほむらの分析

秩序より欲望を優先させた愛という名の激しい感情

さて、いよいよ「愛」のお話です。ほむらが「これこそが人間の感情の極み、愛よ」と言い放ったあのシーン、鳥肌が立ちませんでしたか?普通、アニメや映画で語られる愛って、自己犠牲的だったり、相手の幸せを遠くから願うような綺麗なものが多いですよね。

でも、ほむらが示した愛は、その真逆を行くものでした。相手の意思をねじ伏せてでも自分のそばに置く、相手が神様ならその翼をもぎ取ってでも人間に戻す。まさに「独占欲」と「執着」が極まった、ドロドロとした愛ですよ。

でも、彼女はそれを「人間の感情の極み」と言い切った。ここがすごく深いなと思うんです。秩序や理屈じゃ説明できない、理不尽なまでの「欲求」。

それこそが人間らしさの本質なんじゃないか、という問いかけのようにも聞こえますよね。

私たちが普段「こうあるべきだ」と考えている秩序を、ほむらは「そんなの知ったことか!」とばかりにぶち壊したわけです。彼女にとって、まどかがいない救済された世界よりも、まどかと一緒にいられる壊れた世界のほうが、何億倍も価値があったんでしょうね。

この「欲望」の爆発は、ある意味で彼女がようやく手に入れた「自分自身のための願い」だったのかもしれません。これまではずっと「まどかのために」戦ってきた彼女が、最後に「自分がまどかと一緒にいたいから」という究極のエゴを選択した。

それが悪魔への道だったとしても、彼女にとってはこれ以上ないほど幸福な瞬間だったんじゃないかな、なんて思っちゃいますよ。もちろん、その代償はとてつもなく大きかったわけですが…。

「愛」が悪魔を定義する新しい論理

一般的に、悪魔って「悪」の象徴ですよね。でも、まどマギの世界における悪魔は、神(秩序)に対抗する「個人の感情(欲望)」の象徴として描かれているように見えます。

秩序が「みんなのための幸せ」を追求するのに対して、悪魔(ほむら)は「たった一人のための幸せ」を追求する。これって、実は現代に生きる私たちの心の中にもある、普遍的な葛藤なんじゃないでしょうか。

全体主義的な正しさと、利己的な愛。ほむらはその後者を選び抜き、それを「愛」と定義することで、自分自身を悪魔という唯一無二の存在に固定したわけです。私にはその姿が、悲しくもあり、どこか清々しくも見えてしまうんですよね。

比較項目円環の理(神・まどか)叛逆の理(悪魔・ほむら)
行動原理全魔法少女の救済(普遍的慈愛)鹿目まどか個人の救済(特殊的執着)
目指す世界絶望が浄化される秩序ある世界まどかと普通の日常を過ごす世界
代償個人の消滅・概念化世界からの敵視・永劫の孤独

(横スクロールで詳細を確認できます)

スポンサーリンク

インキュベーターによる救済の提案を拒絶した理由

あのキュゥべえ(インキュベーター)たちの企み、本当に腹立たしかったですよね!彼らはほむらのソウルジェムを実験場にして、円環の理を観測し、さらには「管理」しようとしていました。

彼らにとって、魔法少女の感情エネルギーはただの資源でしかありません。だから「君が救済を受け入れれば、円環の理を捕まえられる。それは宇宙にとっても幸福なことだ」なんて、平気で冷酷な提案をしてくるわけですよ。

でも、ほむらはその誘いに乗りませんでした。ここで注目したいのは、ほむらが自分を犠牲にして救済を待つのではなく、自ら呪いを募らせてインキュベーターの計算を狂わせた点です。

私、このほむらの反撃には、思わず心の中で「いいぞ、もっとやれ!」って叫んじゃいましたよ。

ほむらにとって最悪のシナリオは、自分が救われる代わりに、まどかがインキュベーターの実験材料にされることでした。彼女はそれを察知したからこそ、あえて「救われない道」を選んだわけです。

自分が魔女になり、さらにその枠組みすら超えた悪魔になることで、神としてのまどかをインキュベーターから隠し、彼らが手出しできない「別の理」を構築した。これ、戦略的に見てもすごい高度なことをやってるんですよね。

自分を永遠に呪い続けることで、愛する人を守り抜く。インキュベーターという冷徹な「理性的存在」が理解できない「感情の暴走」を武器にして、彼らを完全に敗北させた。

あのボロボロになったキュゥべえの姿は、まさに計算外の「愛」に打ちのめされた結末を象徴していたのかなと思いますよ。

キュゥべえが「感情」の恐怖を知った瞬間

これまでの物語で、インキュベーターは常に魔法少女たちの感情を一歩引いた場所から観測する立場でした。

でも、叛逆のラストで、ほむらは彼らを自分の作り替えた世界の一部に組み込み、感情という名のエネルギーに無理やり晒し続けましたよね。

あの「わけがわからないよ」という名台詞が、最後には恐怖の色を帯びていたのが印象的です。合理性だけで宇宙を支配してきた彼らが、初めて「理解不能で制御不能な愛」の恐ろしさを骨身に染みて知ったわけです。

これは、ほむらが勝ち取った最大の勝利の一つと言ってもいいんじゃないでしょうか。私たちが普段感じている「理屈じゃ通らない怒りや愛」が、冷徹なシステムを凌駕した瞬間だったんですからね。

ただし、インキュベーターを排除したわけではなく、自分の世界に閉じ込めて利用し続けている点は、ほむら自身の危うさでもあります。いつか彼らがこの感情を「解析」し始めたら…?

そんな想像をすると、新世界の平和が砂上の楼閣のように思えてきて、ちょっと怖いですよね。

二人のほむらが象徴する自己批判と内面的な葛藤

作品の演出で特に印象的だったのが、ソウルジェムの中の世界で、現在のほむらが過去の自分(眼鏡ほむら)を冷酷に扱ったり、逆に責め立てられたりするシーンですよね。

あれ、ほむらの心の中がどれほど引き裂かれていたかを物語っているなと思います。私たちが「ほむらちゃん、かっこいい!」と思っている裏側で、彼女自身は自分の取っている行動に対して、ものすごい「罪悪感」と「恐怖」を感じていたはずですよ。

まどかの願いを裏切り、世界を欺いている自分。そんな自分を、彼女の中の「まどかを純粋に信じていた頃の自分」がずっと睨みつけているわけです。この内面的な自己批判こそが、彼女を真の意味で悪魔に変質させた「内なる傷」だったんじゃないでしょうか。

彼女は、決してまどかを嫌いになったから裏切ったんじゃないんです。むしろ逆で、まどかを愛しすぎているからこそ、そのまどかが決めた「神になる」という正しい選択を壊さなきゃいけなかった。

この矛盾が、彼女の精神をズタズタに引き裂いていたはずです。劇中で自分を銃で撃つような描写や、自分自身を押し潰すような演出は、彼女の強烈な自己嫌悪の現れですよ。私、あのシーンを観るたびに、彼女の心の痛みが伝わってくるようで胸が締め付けられます。

「悪魔」という言葉は、他人から呼ばれる称号である以上に、彼女が自分自身を罰するために自らに課した「呪い」のラベルだったのかもしれませんね。そう考えると、あの不敵な微笑みの裏にある孤独が、より一層深く感じられませんか?

クララドールズ(偽街の子供たち)に投影された15の感情

ほむらの使い魔として登場する「クララドールズ」。実は彼女たち、それぞれに「臆病」「見栄」「嘘つき」といったほむらの負の感情が割り当てられているんですよね。

彼女たちがほむらを囲んで囃し立てたり、葬列のように歩いたりする姿は、ほむらの心がバラバラに砕け、それぞれの感情が勝手に動き回っているような状態を示唆しているのかなと私は思います。

自分一人の力ではもう抱えきれなくなった巨大な感情の残滓たちが、奇妙な子供の姿を借りて現れている。つまり、あの不思議な世界そのものが、ほむらの「壊れかけた心象風景」そのものだった、ということですよね。

あんなにカラフルで賑やかなのに、どこか寒気がするのは、それが絶望を愛で塗りつぶした「不自然な幸福」だからかもしれません。

クララドールズの中で唯一登場しない15番目の名前は「愛(Ai)」と言われています。この存在しない15番目こそが、実体化した「悪魔ほむら」自身であるという説が有力です。

すべての感情を統合した先にあったのが、愛という名の悪魔だったという解釈、すごく納得感がありますよね。

スポンサーリンク

まどマギ叛逆の物語の考察|結末の意味と新世界の行方

ここからは物語の核心、あの衝撃的な「まどか略奪」の是非について深掘りしていきましょう。ほむらが円環の理の一部、つまり「鹿目まどかという個人の記録」を力ずくで引き剥がしたあの行為、皆さんはどう感じました?

「なんてことをするんだ!」って怒った人もいれば、「ほむら、よくやった!」って拍手した人もいるんじゃないかなと思います。

私個人としては、あれはまさに「愛の暴走」でありながらも、ほむらにとっては唯一の「正義」だったんじゃないかな、と感じているんですよ。

スポンサーリンク

円環の理からまどかを引き剥がした行為の正当性

美樹さやかは、再構築された世界でほむらに対して「この世界を壊すつもりなの?」と詰め寄りましたよね。さやかにとって、円環の理はすべての魔法少女を救済する唯一の希望。

それを不完全な形にしてしまったほむらの行為は、許しがたい反逆なんです。でもね、ほむらの視点から見れば話は180度変わるんですよ。

彼女にとって、まどかが概念となって誰にも認識されず、永遠に戦い続けること自体が「救いようのない絶望」だったんです。

だから、世界がどうなろうと、宇宙のバランスが崩れようと、一人の少女としてのまどかを連れ戻すことのほうが、ほむらにとっては遥かに正当性があったわけです。

この「全体のための正義」と「一人のための愛」の衝突こそが、本作の最も切ないポイントですよね。

「救済」と「監禁」の危うい境界線

ほむらが作った新しい世界は、まどかにとって本当に幸せな場所なんでしょうか?確かに、家族や友達と過ごす「普通の日常」は戻ってきました。

でも、それはほむらという管理者が作り上げた、いわば「美しい鳥籠」のなかなんですよね。まどか本人が覚悟を持って選んだ「神としての自分」を、ほむらが「それは間違いだよ」と否定して書き換えてしまった。

これって、見方によっては究極の独占欲による監禁とも取れてしまいますよね。でもね、ほむらはまどかが「一人は寂しい」と言ったあの瞬間の言葉を、まどかの真の願いだと信じ抜いた。

その「信じ込み」が、彼女をどんな罪も背負える悪魔に変えたんだなと思うと、ただの悪行とは切り捨てられない、複雑な余韻が残るんですよ。私たちが愛する誰かのために、その人の決断を捻じ曲げてでも助けたいと思う気持ち、どこかに身に覚えがありませんか?

正当性を巡る二つの視点:

  • 秩序の視点: 世界の平和を壊し、救済システムを不安定にした大罪。
  • 個人の視点: 孤独な神様を人間に戻し、温かい日常を返した救済。
  • ほむらの結論: たとえ世界に呪われても、まどかの涙を止めることが私の正義。

偽街の子供たちが示す神は死んだという言葉の象徴

劇中に登場するあの不気味で可愛い子供たち、クララドールズ(偽街の子供たち)が「Gott ist tott(神は死んだ)」と唱えながら行進するシーン、あそこはもう背筋がゾクゾクしましたよね。

このフレーズ、有名な哲学者ニーチェの言葉なんですよ。まどマギの世界観でこれを出すってことは、単なる中二病的な演出じゃなくて、もっと深い意味が込められているんじゃないかなと私は見ています。

これまで魔法少女たちの「救い」となっていた絶対的な基準、つまり「円環の理(神)」が消え去って、これからは人間(あるいは悪魔)の意志が世界を規定する時代になった、という宣言のように聞こえませんか?

ほむらが構築した結界のなかで、まどかの肖像画が汚されたり、踏みにじられたりする演出もありました。

あれは、ほむらのなかにあった「清らかな神様としてのまどか」への崇拝が終わりを告げ、もっと生々しい、人間としての執着へと変化したことを示しているんだと思いますよ。

神様は死んだ。だからこれからは、私がまどかを守る。私が新しい理になる。そんなほむらの傲慢とも取れるほどの強い意志が、あの不気味な子供たちの行進に投影されていたわけです。

私たちが「正解」だと思っていた救済の物語が、あそこで完全に崩壊して、全く新しい、予測不能な「悪魔の物語」に塗り替えられた瞬間だったんですよね。

ニーチェの哲学と「超人」としてのほむら

ニーチェは「神は死んだ」と言ったあとに、既存の価値観に縛られず自ら新しい価値を創造する「超人」であれ、と説きました。

これをほむらに当てはめると、彼女はまさに「超人」そのものになっちゃったのかもしれませんね。神が定めた世界のルールに従うのをやめて、自分の愛と欲望だけで世界を塗り替えた。

それは従来の道徳から見れば「悪魔」かもしれないけれど、自分自身の意志で運命を切り拓こうとする究極の個人の姿でもあるわけです。

あの子供たちが笑いながら神の死を告げたのは、ほむらが既存の「魔法少女の運命」という枠組みを完全に突破したことを祝福(あるいは呪い)していたんじゃないかな、なんて思えてくるんですよ。

クララドールズたちの名前には、それぞれ意味が込められています。「誇り」「悲しみ」「臆病」など、ほむらの心がバラバラになったパーツのような存在。

彼女たちが「神様なんていらない」と叫ぶのは、ほむらの心の一部がそう叫んでいた証拠でもあるんですね。

スポンサーリンク

ラストの椅子からの転落シーンが意味するもの

エンドロールが終わって、最後に流れるあの奇妙な映像。半分になった丘の上で、ほむらが椅子に座って、そのまま後ろに真っ逆さまに落ちていくシーン。

あれを観て「えっ、自殺なの?」とか「どういうこと?」って混乱した人も多いはずですよ。私も最初は意味がわからなくて、何度も見返しましたもん。

でもこれ、テレビシリーズのオープニング映像(『ルミナス』)でまどかとほむらが寄り添って座っていた椅子と、あえて同じ構図にしているんですよね。

それが「半分しかない」ってところが、もう涙腺を刺激するポイントというか、なんとも言えない切なさを物語っているなと思うんです。

あそこでほむらが椅子から転落したのは、彼女が手に入れた「新世界」が、実は足場のまったくない、極めて不安定な夢のようなものだということを示唆しているんじゃないかな、と私は考えています。

まどかを人間に戻し、隣に並ぶ権利を手に入れたはずなのに、まどかとの間には決して埋まらない深い溝(半分になった丘)ができている。

隣に座るはずのまどかは、概念としての力を失い、記憶を封じられた存在。一方のほむらは、すべてを覚えたまま悪魔として君臨している。この決定的な「対等ではない関係」が、彼女を椅子に座らせてはおけなかった。

あの落下は、彼女の心の安らぎが永遠に失われたことの象徴なのかもしれませんね。でもね、落ちていくときの彼女の顔、どこか晴れやかで、満足そうな微笑みを浮かべていたようにも見えませんでしたか?

月が半分になった不気味な夜空の意味

あのラストシーンで見上げる夜空、月が不自然に半分に削り取られていましたよね。これまでの物語で「満月」がまどかの完成された救済を象徴していたとしたら、あの欠けた月は、ほむらが無理やり奪い取った「欠損した世界」を象徴しているんじゃないでしょうか。

完璧なハッピーエンドではない、誰かの犠牲の上に成り立つ歪な世界。ほむらはその欠落さえも愛おしいと言って笑っている。

私には、あの落下シーンは「たとえ地獄へ落ちるとしても、この一瞬の再会があればいい」という、彼女の捨て身の覚悟の完結編のように見えてならないんですよ。

落ちていく先がどこであろうと、彼女はもう後悔していない。そんな凄絶な美しさが、あの数十秒の映像には凝縮されていたかなと思いますよ。

ラストシーンの解釈はファンによって大きく異なります。「概念と化したまどかへの追慕」とする説もあれば、「新世界での精神崩壊」とする説もあります。

確かなのは、ほむらの心はもう、かつての「見滝原の日常」には戻れないほど遠くへ行ってしまった、ということですね。

再構築された世界における魔法少女たちの敵対構造

新世界では、ほむらちゃんが学校の案内係をしていたりして、一見すると平和そのものに見えますよね。でも、その実態は「ほむらによる厳重な記憶管理」が行われている、超監視社会(?)のような状態なんですよ。

特に美樹さやかとのピリピリした関係性、あれはもう観ていてハラハラしました。さやかは円環の理の記憶を完全には消されておらず、ほむらが「まどかから神の力を奪った」ことを知っている唯一の存在(なぎさはちょっと特殊ですが)。

ほむらにとってさやかは、この偽りの平和を脅かす一番のリスク要因になっちゃったわけです。私、あの二人が廊下ですれ違うシーンの緊張感、たまらなく好きなんですよ。

さらに切ないのが、ほむらがまどかに対しても、常に「監視の目」を向け続けなきゃいけないってことですよね。

まどかがふとした瞬間に神としての力(円環の理の自覚)を取り戻そうとすると、ほむらは必死でそれを押さえつけ、「あなたは間違いなく鹿目まどかよ」と言い聞かせなきゃいけない。

かつてはあんなに仲が良かった二人が、今は「監視者」と「被監視者」、あるいは「偽りの神」と「本物の悪魔」という、完全に敵対してもおかしくない構造のなかにいる。

これ、ほむらにとっては一番の悲劇なんじゃないでしょうか。愛する人を守るために、その人から一番恐れられる存在にならざるを得ない。

その孤独な戦いを、ほむらはたった一人で続けていくわけです。さやかたちも、今はほむらの力に屈していますが、いつか牙を剥く日が来るのは目に見えていますよね。

管理された「偽りの日常」がもたらす緊張感

さやかだけじゃなく、巴マミや佐倉杏子だって、いつまでも騙されているとは限りません。ほむらの世界は、みんなの「幸福」をエサにして記憶を塗りつぶしているけれど、人間の意志ってそんなに簡単に御せるものじゃないですよね。

ほむら自身もそれをわかっているからこそ、あんなに攻撃的な、それでいてどこか怯えたような態度を取るんじゃないかな、なんて思えてきます。

みんなと一緒にいたいから世界を作り変えたのに、その世界のなかで誰よりも孤独で、誰からも理解されない。この矛盾した構造が、新世界の基盤になっているわけです。

私たちの日常でも、「本当のことを言えば壊れてしまう関係」を維持するために嘘をつき続けることってありますが、ほむらがやっているのはまさにその究極版。その危うい均衡がいつ崩れるのか、続編ではそこが最大の焦点になりそうですよね。

キャラクター新世界での状況ほむらとの潜在的関係
美樹さやか円環の理の記憶を一部保持明確な反抗勢力・監視対象
百江なぎさ記憶を封じられ「チーズ好き」として生活今のところは無害だが未知数
巴マミ平穏な日常を謳歌中真実を知れば敵対する可能性大
佐倉杏子さやかとの平穏を喜んでいるさやかの出方次第で敵に回る
鹿目まどか「普通の少女」として生活無意識の覚醒を常に警戒される対象

(横スクロールで各キャラの立ち位置を確認できます)

スポンサーリンク

欲望と秩序が一体化した悪魔ほむらの功罪と救い

最後に、悪魔ほむらという存在が世界にもたらした「功罪」について、私なりに整理してみたいと思います。正直、彼女のやったことはめちゃくちゃですよ。宇宙の理をひっくり返して、個人の欲望で世界を染め上げたわけですからね。

でも、すべてが悪だったかと言うと、そうとも言い切れないのがこの作品の憎いところなんです。例えば、テレビシリーズのラストで死んでしまったさやかや、円環の理に連れて行かれたなぎさが、この新世界では「人間として生きて、笑っている」んですよね。

これ、まどかの救済(円環の理)でも成し得なかった「奇跡」の形の一つじゃないかなと思うんですよ。まどかの救済は、魂を浄化して消滅させるものでしたが、ほむらの救済は、泥臭くてもこの現世で生き続けさせるものでした。

ほむらが選んだ道は、確かにエゴイズムの極致かもしれません。でも、そのエゴが結果として「失われた命」を呼び戻し、不完全ながらも「日常」を再生させた。

魔法少女が魔女になる前に消えるというシステムも、歪な形ながら維持されているようですし、世界が即座に崩壊したわけでもありません。

ほむらは、インキュベーターという理不尽なシステムに「感情」という名のバグを叩き込み、奴らを飼い慣らすことで、ある種の平和を無理やり作り出したわけです。

これは、正しい「秩序」では救えなかった人々を、「欲望(愛)」という力技で救い上げた、一つの答えなのかもしれません。私、この「正しくないけれど、どこか温かい」というほむらの矛盾した救済に、どうしようもなく惹かれてしまうんですよね。

皆さんは、この歪な平和をどう評価しますか?

『ワルプルギスの廻天』へ繋がる未来への期待

もちろん、この物語はここで終わりではありません。待望の続編『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』では、この悪魔ほむらが作った世界のその後が描かれます。

予告映像では、まどかが再び弓を手に取り、ほむらと対峙するような不穏なシーンもありましたよね。ほむらが必死で守ろうとした「偽りの日常」は、やはり長くは続かないのかもしれません。

でも、たとえ最後に対立することになったとしても、ほむらがあの時まどかを想って流した涙や、悪魔になると決めた覚悟そのものが消えるわけではありません。

彼女が勝ち取った「ひとときの幸せ」が、次の物語でどのような答えに辿り着くのか。私は、どんなに悲しい結末だったとしても、最後には彼女たちの魂に本当の救いがあってほしいな、と願わずにはいられないんですよ。

(出典:『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』公式サイト

続編『ワルプルギスの廻天』のキャッチコピーは「さあ、物語を続けましょう」。これは悪魔となったほむら自身の言葉のようにも聞こえます。

彼女が描くシナリオの終着点は、希望か、それともさらなる叛逆か。今のうちに新編を何度もおさらいしておきたいですね。

スポンサーリンク

まとめ:まどマギ 叛逆の物語 考察|ほむらが悪魔を選んだ真意と結末の救い

ここまで、まどマギ 叛逆の物語 考察として、暁美ほむらの心理や新世界の構造についてじっくりとお喋りしてきました。この物語を振り返って思うのは、やっぱり「愛って、綺麗事だけじゃないんだな」ということですよ。

ほむらが示した愛は、あまりにも重くて、痛くて、わがままでした。でも、だからこそ、誰よりも人間らしくて、私たちの心に深く突き刺さるんですよね。

彼女がすべてを投げ打って守ろうとした、あの夕暮れ時の帰り道や、なんてことのないお喋り。それこそが、彼女にとっての宇宙そのものだったわけです。

これから続編を観る際も、きっと私たちは「ほむらの選択は正しかったのか?」と問い続けることになるかなと思います。

でも、正解なんて最初からなかったのかもしれませんね。あるのはただ、大切な人を想う強すぎる感情と、その果てに選んだたった一つの結末だけ。

まどかたちの物語はまだ続きます。次に何が起きるのか、ドキドキしながらその時を待ちましょう。

スポンサーリンク
ABOUT ME
クロ
クロ
雑誌編集者
元・雑誌編集者のクロが運営するブログ「日本娯楽書簡」へようこそ。
アニメ・漫画・映画の考察や裏話を、独自の視点でお届けしています。
error: Content is protected !!
記事URLをコピーしました